出発

今日はだいちの入隊式に来ています。場所は大津駐屯地です。

式の冒頭あいさつされた幹部の方の、「災害等で困っている方に寄り添える思いやりのある自衛隊員になってください。」とのメッセージが印象的でした。

だいちの研修生活が充実したものとなりますように。そして、だいちが思いやりのある人に成長できますように。

1時間弱で入隊式が終わり、昼の会食まで時間がありますので、車に戻りSEIKYO ONLINEを読んでいます。今日の体験もよかったです。長いですが、全文を載せさせていただきます。

〈信仰体験 入学の曲〉

母子で咲かせた勝利の桜

夫が他界して10年
長男が創大看護学部に進学

 【宮城県・亘理町】今月2日、市川桂子さん(46)=亘理支部、地区婦人部長=と長男・湧斗さん(19)=学生部員=は、桜花舞う東京・八王子市の創価大学にいた。間もなく入学式が始まる。湧斗さんが身に着けている、紺地に青と黄色のストライプのネクタイは、夫・豊さんの形見。市川さんは、スーツ姿の息子をまぶしそうに見つめ、心の中で夫に呼び掛けた。“あの日から10年。いつの間にか湧斗は、スーツの似合う青年に成長しましたよ”――。

おなかの子

 2008年(平成20年)4月6日の朝、朝食を作りながら、当時9歳の湧斗さん、5歳の次男・聖也さん(15)=高校1年=と、夫の帰りを待っていた。
 豊さんは、鉄筋工事の会社を営んでいた。毎朝午前5時過ぎに自宅近くの工場へ出勤し、朝食を取りに、いったん帰宅するのが常だった。
 だが、その日は違った。電話が鳴った。警察からだった。「会社の人が運転中に事故に遭い、話せない状況なので確認に来てください」
 病院で待っていたのは、ストレッチャーに乗せられた夫。話し掛けても言葉は返ってこない。センターラインを越えてきた対向車と衝突し、即死だったという。
 今朝、自分の体を気づかって夫が静かに家を出る際、布団の中から「いってらっしゃい」と見送ったばかり。“なんで……”
 市川さんは、妊娠6カ月目を迎えていた。思わず、おなかに手を当てる。“あんなに楽しみにしていたのに”
 悲しみに暮れる間もなく、葬儀の準備などに追われた。食欲なんて湧くはずもない。何も喉を通らなかった。そんな時だった。“おなかの子が動いた!”。胎動を感じた。まるで、“生きて”と励ますように。
 “この子も、子どもたちも私が守らなきゃ”。食べたくもない食事を、目に涙をため、口に運んだ。

一つの作文

 突然の別れ。当初、湧斗さんは、悲しいとも悔しいとも感じなかった。ただ火葬する際、「どうしてもお父さんを焼いてほしくなかった。これで、お父さんの顔を見られなくなるのかと思うと、胸が苦しくなった」。
 その後、授業中に泣いてしまったことがある。「どうしてお父さんが死ななければ、いけなかったか。大けがでもいいから生きていてほしかった」
 8月7日。長女・麗紗さん(9)=小学4年=が生まれた。家族が増えた喜び。湧斗さんは一つの作文を書いた。題名は「お父さん、りさが生まれたよ」。
 豊さんが亡くなる1週間前、一緒に入浴した時のことを書いた。
 「お父さん、ぼくに何してほしい?」
 湧斗さんの問いに、「そうだな……立派な人間になってほしい。そして、もう一つ。家族を大事にしてほしいなあ」。
 肩もみぐらいかと思っていた湧斗さんは驚いた。
 〈立派な人間って、どんな人のことを言ったのだろう。ずっと考えてきたけれど、いまだによく分からないので、これからも考えていきたいと思う〉
 〈もう一つの、家族を大事にする、というのはすぐにでもできそうだ〉。母のお手伝いをしたり、弟の面倒を見たり、父親の顔を知らない妹のために、〈たくさん、お父さんのことを話して聞かせるよ〉と。
 作文は、県内の小学生が書いた優秀作文を集めて発行される『作文宮城』に掲載された。

生きた証し

 市川さんが創価学会に入会したのは、2000年。当時、豊さんの会社は困窮し、従業員の給料もままならなかった。仕事で知り合った学会員から、信心で克服できると勧められ、家族そろって信心を始めた。その後、好条件の仕事に恵まれ、業績は少しずつ改善していく。初信の功徳だと思った。従業員は増え、新しい工場も建てることができた――。
 夫が亡くなり、その会社をたたむことは忍びなかったが、やむを得ない。3人の子を育てるため、医療事務の資格を取り、働き始めた。母・愛子さん(75)が一緒に住み、家事を手伝ってくれた。
 目まぐるしく、ままならない毎日。戸惑いと無念。市川さん自身、高校時代、父親を病で亡くしていた。父のいない寂しさを、わが子にもさせてしまった。宿業を感じずにはいられなかった。そんな彼女を多くの同志が励ます。池田先生の指導も、前に進む勇気の灯となった。
 市川さんは、夫の三回忌に合わせて、家族の思い出をちりばめたアルバムを作製した。子どもたちに、少しでも父親を感じてほしかった。
 アルバムの最後は、こう締めくくった。
 「あなたが残してくれたもの/大事な大事なたからもの/あなたが生きた証は/たくさんあるけれど/あなたの命を受けついだ/この子供達が/りっぱに成長することを願って」
 表紙には、市川さんが撮影した桜の写真を載せた。豊さんが亡くなったのは、宮城の桜が咲く直前だった。“家族で桜を見たかった”。そんな思いを込めた。

祈りと約束

 2011年3月の東日本大震災。津波で自宅が浸水し、避難所生活を余儀なくされた。“何としても子どもたちを守らねば……”
 気を張るほどに、職場の人間関係にも悩んだ。車で出勤する際、大音量で音楽を流さないと、アクセルを踏めないことも。後日、うつの初期症状だと知った。婦人部の先輩が寄り添ってくれた。
 湧斗さんも、母の助けになりたくて、勉学に励んだ。だが昨年、高校卒業後、浪人生活が決まる。家計が苦しいことを考えると、自身がふがいなかった。
 そんな一家を、何かと気に掛けてくれたのが創価の同志だった。「何か困っていることはないかい?」「みんな、大事な使命があるんだよ」
 御本尊に真剣に題目を唱えた。経机の上には、三回忌の日に本紙に掲載された「わが友に贈る」の切り抜きが張られていた。
 「未来を担う/若き指導者よ!/強き祈りを忘れるな。/勝利の約束を破るな。/創価の希望王たれ!」
 努力する息子の姿を見て、市川さんも負けてはいられないと思った。仕事と家事、白ゆり長として、全てをやり抜いた。本年1月からは地区婦人部長に。
 そして2月の合格発表。夢のようだった。地域の婦人部員に言われた。「お母さんの勝利だね」。涙があふれた。

立派な人間

 湧斗さんが、創大の看護学部を目指したのには理由がある。震災で避難した際、暗い雰囲気の避難所にあって、医療スタッフが行くところ、笑顔が生まれた。「自分も、あんな人になりたい」と、看護師を目指すきっかけになった。
 父からの遺言ともいえる「立派な人間」。何度もアルバムを開いては、その意味を考えてきた。
 看護学部棟を見た時、誰かのために行動できる人、寄り添える人――それを父は望んでいたのだと思えた。「やっと“立派な人間”への一歩を踏み出せたよ」。そう父に報告した。
 入学式の直前、母から手紙を渡された。当日まで悩みながら書いたという。手紙には、こうつづられていた。
 「感謝の心を忘れず、『報恩』の人になってほしい」「心に『恩』を知る人は、絶対負けない」「創価大学に連れて来てくれてありがとう」
 恩に報いるための4年間が始まった。(東北支社編集部発)

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