人は死んだあとどうなるのでしょうか。

今週読んだ箇所に感銘を受けました。

みなさんにも読んでいただきたくて、昨日と今日、行きも帰りも、帰ってきてからもずっと、入力していました。新・人間革命第三巻、「仏法西還」の章からです。

昭和36年、初の海外指導となる香港訪問の初日、地元同志との座談会でのご指導の一コマになります。深く心に刻み、絶対に忘れたくないご指導です。

とてもとても長いですが、二日間かけて頑張って打ちましたので、ぜひ最後まで読んでくださいね。

「私は信心をする時に、生命は永遠であると聞きましたが、人は死んだあと、どうなるのでしょうか。」

「これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。いくら語っても、語り尽きない問題ですので、今日は、その一端だけ、お話ししましょう。現代人の中には、生命というのは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。日本の国に生まれる人もいれば、香港に生まれる人も、アメリカに生まれる人もいる。あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生れてくる子どももいます。生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。まさにもって生まれた宿命という以外にありません。もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨み、無気力にならざるを得ません。あるいは、何をしようが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥ってしまうことになる。この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるを得ません」

伸一は、参加者に視線を注いだ。皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。

「三世に渡る生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると説いているのか――。自分以外のものによってつくられたのではなく、過去世において、自分自身がつくり出したものだというんです。少し難しくなりますが、身、口、意の三業の積み重ねが、宿業となるのです。つまり、どのような行動をし、何を言い、何を思い、考えてきたかです。たとえば、人を騙し、不幸にしてきたり、命を奪うといったことが、悪業をつくる原因になります。さらに最大の悪業の因は、誤った宗教に惑わされて、正法を誹謗することです。これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。さて、人間は、死ねばどうなるかという問題ですが、生命は大宇宙にとけ込みます。戸田先生は、その状態を、夜になって眠るようなものであると言われている。さらに、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。これが来世にあたります。生命は、それを繰り返していくのです。ここで大事なことは、死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。たとえば、一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。今世で、七転八倒の苦しみの中で死を迎えるならば、来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。死んでも、宿業から逃れることはできない。ゆえに、自殺をしても、苦悩から解放されることはないんです。反対に、幸福境涯を確立し、喜びのなかに人生の幕を閉じれば、来世も、善処に生まれ、人生の幸福に軌道に入ることができます。こう言うと、なかには、来世も宿業で苦しむなら、生まれてこないで、ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、そうはいきません。生まれる前の、大宇宙にとけ込んだ状態であっても、生命は苦しみを感じているんです。ちょうど、大変な苦悩をかかえている時には、寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

彼は生死という根本の問題を、わかりやすく、噛み砕いて語っていった。現代の思想や哲学はない今世のみに目を奪われている。それは地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。ゆえに、人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。伸一は話を続けた。

「それでは、その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。あります。それを、末法の私たちのために説いてくださったのが日蓮大聖人です。そして、その方法こそ御本尊への唱題であり、折伏です。それが、生命の法則に則った最高の善の生き方であり、歓喜に満ちた永遠の幸福とういう境涯を確立する唯一の道なんです。こう申し上げると、初代会長の牧口先生は、牢獄で亡くなったではないか、不幸ではないかと言う人がいます。しかし、一番大切なことは、死を迎えた時の心であり、境涯です。苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、獄中であっても、安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。牧口先生は獄中からの便りに、経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。また、学会員でも、病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、思う人もいるでしょう。その場合でも、信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、仏法には明確に説かれております。つまり、本来、何度も生死を繰り返し、長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているんです。その証明の一つが臨終の相です。大聖人の御書の中で、経文のうえから、体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。戸田先生も、微笑むような成仏の相で亡くなりました。私は数多くの同志の臨終を見てきました。ともあれ、広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない。経文にも、千の仏が手を差し伸べ、抱き抱えてくれると説かれている。臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なんです。まさに、生きている時は、『生の仏』であり、死んだあとも『死の仏』です。さらに、その証明として、残された家族が、必ず幸福になっています。だから、信心をし、難に遭い、いかに苦労の連続であったとしても、退転してはならない。難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなんです。永遠の生命から見れば、今世の苦しみは一瞬にすぎない。未来の永遠の幸福が開けているんです」

日蓮大聖人は「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書1404ページ)と述べられている。「死とは何か」の正しい究明がなければ、人間として「なんのために死ぬか」「いかに死ぬか」を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。生と死は、本来、表裏の関係にほかならないからである。現代人は、葬儀の形式などには、強い関心を持ち始めているが、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している。根本的な要因が潜んでいるといえよう。山本伸一は、ここで、先祖供養に話を移した。

「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、どうしているかというと、すでに生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、まだ、生まれていない場合もあるでしょう。あるいは、生まれていても、人間に生まれているとは限りません。宿業のいかんによっては、畜生、つまり動物に生まれることもある。これは、経文に明確です。むしろ、人間に生まれることの方が、はるかに難しい。しかし、先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。ましてや、畜生などに生まれれば、自分では題目を唱えることはできないわけですから、私たちの唱題だけが頼みの綱になります。また、先祖が人間として生まれてきている場合には、私たちの送る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、仏法に縁し、信心をするようになるんです。したがって、先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません。お金を出して、塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。もし、そうだとするなら、金の力で成仏できることになってしまう。一方、信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐにご本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜の中、広宣流布に生きることができる。そして、先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、さきほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります」

人間は、過去世も未来世も見ることはできない。しかし、三世に渡る生命の因果の理法を知るとき、いかに生きるかという、現在世の確かなる軌道が開かれる。そして、それが未来世を決定づけてゆく。伸一は、情熱を込めて訴えた。

「私たちは今、人間として生まれてきた。しかも、大宇宙の根本法を知り、学会員として、広宣流布のために働くことができる。これは大変なことです。たとえば、森に足を踏み入れると、その足の下には、数万から数十万の、ダニなどの小さな生物がいると言われています。さらに、細菌まで含め、全地球上の生命の数を合わせれば、気の遠くなるような数字になります。その中で、人間として生まれ、信心することができた。それは、何回も宝くじの一等が当たることより、遥かに難しいはずです。まさに、大福運、大使命のゆえに、幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。ところが、宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、人間と生まれて信心ができた素晴らしさがなかなかわからないで、退転していく人もいます。残念極まりないことです。私たちにとっては、この生涯が、一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。どうか、この最高の機会を、決して無駄にしないでいただきたい。永遠の生命と言っても、いっさいは『今』にあります。過去も未来も『今』に収まっている。ゆえに、この一瞬を、今日一日を、この生涯を、感謝と歓喜をもって、広宣流布のために、力の限り生き抜いていってください。ザッツ、オッケー?」

伸一が英語で話を締めくくると、弾けるような声と明るい笑いが広がった。彼が、この質問に、かなり長い時間をかけて答えたのは、生死という人生の根本のテーマを明確にしておきたかったからである。

今が大事。

先生のご指導を読んで、死ぬことが怖くなくなった――

うーん、それは強がりですね~。

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