生きるよろこび噛みしめて
今朝は走れませんでした。昨日走った疲れがもろに溜まっている感じでした。
今日も妻の食育魂がすごいです。ゆめの弁当。中身はよくわかりませんが、そのボリュームと色合いに惹かれてパシャリ。
今日の聖教新聞。信仰体験は、脳性まひを抱える静岡県の女性が、力強く生きる姿でした。2枚の写真から見えるその女性の笑顔がとても印象的です。
記事では、次の一節が印象深かったです。
ある日のこと。「足さえ治れば、幸せになれるのに」と思わず口にしたことがある。鈴木さんは「まーちゃん、違うよ! 今のままで幸せになれば、それは治ったのと一緒だよ」と笑顔で語ってくれた。捉え方一つで、世界は明るくできることを教えてくれた。
「私たちの姿が、誰かの“希望”となれるよう、二人で仲良く歩んでいきます」
私は今朝この信仰体験を読んで、昴のことを思い出しました。四日市病院で昴が亡くなる当日の昼ごろ、既に脳死状態が続いていた昴の片肺が潰れてしまったことがわかり、そのままではもう片方の肺も間もなく潰れて死を迎えると執刀医から宣告されました。私たちは、このまま植物状態のままでもかまわない。だから、昴の命だけは助けて下さいと執刀医にすがりついたときのことが蘇ります。
昴の命は、私と妻の心の中に煌々と生き続けています。昴の命は、私たち両親に生きる力を与えていてくれる。だから、昴は13年2ヶ月と短命だったけど、今も、これからも、ずっと昴の命は生きていきます。
私たちがそうやって思えて、きっと昴も微笑んでいてくれると思います。
でも・・・
中学2年、3年、高校・・
もっともっと、生きていて欲しかったな。
生きるって、すばらしいことですよね。
“生きる喜び”、深く深く噛みしめて、これからも生きていきたい。
みなさんも、そうあってほしい。
すみません。朝から湿っぽくなってしまいました。
以下、すごく長いですが、その信仰体験の全文です。
〈信仰体験〉 脳性まひと生きる 2018年10月10日
幸せになれば それは治ったのと一緒
再就職、結婚、願いは全てかなった
「結婚してから、母と過ごす時間の大切さを実感します」と原川さん㊧。休日に母・山田雅子さんと出掛ける
【静岡県焼津市】かつては、産んでくれた母に感謝できなかった。“なぜ私には障がいがあるのだろう”“私が生きている意味は”。長年、抱えてきた疑問と苦しさから救ってくれたのは創価学会の同志だった。原川雅代さん(43)=大富支部、副白ゆり長=は今、幸せをかみ締めながら充実した一日一日を送っている。
自分の存在
仮死状態で誕生した赤ちゃんは産声を上げなかった。もはや助からないと踏んだ助産師が「せめて、お母さんのそばで……」と母・山田雅子さん(78)=婦人部員=の隣に寝かせようとすると、か細く泣いた。救急で大学病院に搬送される間、母は友人から勧められていた題目をずっと唱えた。
一命を取り留めることができた喜びのまま、母は姉と創価学会に入会した。
間もなく原川さんに重度の脳性まひがあると診断される。
それでも、幼い頃の記憶では、母はよく笑っていた。座談会の帰り道、婦人部の愛唱歌「今日も元気で」を一緒に歌った。学会の同志といる時、母のまなざしは優しかった。
だが厳しい現実が、母から笑顔を奪う。病弱な体で働き、姉と障がいのある原川さんの育児は、女手一つでは大変だった。5歳の時、親戚を頼って岐阜から静岡に引っ越すことに。一家は次第に学会から遠ざかった。
ある日、母と一緒に祭りへ連れていかれた。その会場が入所する療護園(現在の医療福祉センター)だった。「また、来るからね」と別れを告げる母に「置いていかないで」と泣きじゃくった。リハビリや手術のため、母と離れて暮らした。
“お母さんが迎えに来る”週末が楽しみだった。だが、母は仕事を掛け持ち、朝から夜まで働きづめ。姉は寂しさから家族に反発した。原川さんは小学6年の時、自ら願い出て家に戻った。
小学校の普通学級に転校すると、歩き方をからかわれ、いじめの対象になった。
人前で給食を食べることもできなくなり、拒食と過食を交互に繰り返すように。不登校になった。
自分の存在が苦しかった。家でも、自分がいることで母や姉を苦しめているように感じてならなかった。“私さえいなければ”。自殺願望に駆られる毎日。それは特別支援学校を卒業後、就職しても消えることはなかった。
捉え方一つ
沈んでいた原川さんの“生”をつなぎ留めたのは、学会の存在だった。幼少期に感じた温かさが忘れられなかった。
女子部の先輩に誘われて会合に参加すれば、多くの人が笑顔で声を掛けてくれた。仲の良い家族を見ては、うらやましく思った。学会の中には、自分が求めている全てがあった。
勤行を覚えて、女子部の活動に励むように。合唱団の一員にもなった。
1997年(平成9年)、脳性まひの鈴木保子さん(63)=大井川支部、地区副婦人部長=と出会う。障がいを笑い飛ばす生命力あふれる姿は衝撃だった。
ある日のこと。「足さえ治れば、幸せになれるのに」と思わず口にしたことがある。鈴木さんは「まーちゃん、違うよ! 今のままで幸せになれば、それは治ったのと一緒だよ」と笑顔で語ってくれた。捉え方一つで、世界は明るくできることを教えてくれた。
鈴木さんは、一人で東京まで行くことを誇りにしていた。「ありのままの気持ちを手紙に書いて、池田先生に届けようよ」。それからは毎月のように2人で上京するのが、楽しみになった。
原川さんの元に、池田先生の写真集が届けられたことがあった。一ページずつ大切にめくっていくと、見覚えのある詩に手が止まった。
それは、女子部の合唱団で歌った合唱組曲「民衆」の歌詞。
「僕も戦う/君も戦う/君の無骨な手がふるえ/素朴な顔に輝きわたる/生きるよろこびを/生きるよろこびを/この地上に獲得するまで/僕も戦う!/君も戦え!」
何度も繰り返し読んだ。“池田先生が、私に言ってくださっているんだ!”
行動の幅を広げた。創価大学通信教育部の科目履修生になり、スクーリングへ。ある教授が複雑な家庭で育った自らの体験を語ると、「私も同じです」と歩み寄った。教授から「一番苦しんでいるのは、お母さんですよ」と諭すように励まされた。家のことは相変わらずだったが、そうした温かな出会い一つ一つが、原川さんの心を開かせていく。
2004年、硬直した筋肉の解離手術を5回受けた末、車いす生活に。宿命に立ち向かうように女子地区リーダーとして活動に励んだ。“今こそ信心で奮い立とう”と決意を強めた。
誰かの希望に
車いす生活になってから、母との時間が増えた。一緒に食卓を囲むように。母は原川さんがふさぎ込むのではと心配したが、明るく学会活動に励む娘の姿に、再び会合に参加するようになっていく。
11年、原川さんの勤務する工場が閉鎖に。再就職は厳しく、20社から書類選考で落とされた。それでも同志の励ましを力に変えて、希望通りの大手企業に転職を果たすこともできた。
一方で、老いていく母親にいつまでも頼らず、自立したい思いがあった。結婚が目標に加わり、母と一緒に題目を唱えるように。
13年、寛さん(52)=副本部長(支部長兼任)=から結婚を申し込まれた。だが、いざ現実になると、気後れした。
4年の歳月を経て、昨年5月に結婚した。寛さんは介護施設に勤務する看護師。最高のパートナーとなった。自宅はリフォームし、バリアフリーで暮らせる住まいにもなった。
ある時、母と夫の2人だけで、親類へのあいさつ回りに行く機会があった。車中、母が夫に語っていたという。
「毎日が必死で本当に大変だった。でも、何度もあの子の笑顔に救われたのよ」
原川さんにとって、聞いたことのない言葉だった。
これまで支えてくれた同志が集った披露宴では決意を語った。
「私たちの姿が、誰かの“希望”となれるよう、二人で仲良く歩んでいきます」
振り返れば、願った祈りは全てかなっていた。
最近、母が感慨深げに語った。「決めて祈ればかなうのね。信心ってすごい」
「そうだね! お母さんが信心してくれたおかげだよ。お母さん、ありがとう!」。原川さんは最高の笑顔で、そう返した。