無力感の塊

第一回の刑事裁判を終えました。

帰宅した今の私の状態は、無力感の塊。

今日に期待しすぎたのかもしれません。

私たちの感情を法廷で話す予定だったのですが、冒頭から裁判官に止められてしまいました。今日はそんな場ではなかった。私が勘違いし、期待しすぎていました。

相手側のことを書くと汚れてしまいそうなので、ここではやめておきます。

私の落ち込む姿を見て、妻が力強く唱題してくれていました。

さらに、昨日と今日の先生のご指導を読んで聞かせてくれました。

人生は、宿命との容赦なき闘争といえる。
 愛する人を失うこともあれば、自らが病に倒れることもある。あるいは、家庭の不和、子どもの非行、失業、倒産、生活苦……。これでもか、これでもかというほど、怒濤のごとく、苦難は襲いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない。
 苦難に負けず、労苦を重ねた分だけ、心は鍛えられ、強く、深くなり、どんな試練をも乗り越えていける力が培われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯の自分になれる。
 また、苦難に挫けることなく、敢然と戦い進む、その生き方自体が、仏法の偉大なる力の証明となっていく。つまり、広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝となるのだ。

 

伸一自身、個人的にも幾多の試練に遭遇した。一九八四年(昭和五十九年)十月三日には、次男の久弘が病のために急逝した。享年二十九歳である。伸一は、久弘の死は、必ず、深い、何かの意味があると思った。
 広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。広布の道は、長い長い、一歩も引くことのできぬ闘争の連続である。これを覚悟して「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書七五〇ページ)との原理を体得していくのが、大聖人の事の法門であり、学会精神である。 

第二回は6月15日と決まりました。

今は無力感の塊となっていますが、妻が励ましてくれたように決して折伏精神を忘れず、次回に向けて、また自分の命を上げていかなければと思います。

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