勝利の実証って
今朝も朝一、名字の言を読みました。
私にとっての「勝利の実証」って何だろう。ボーっとしながらでしたが、急に私の心はザワザワし始めました。
そして、昨夜妻と走りながら話したときのモヤモヤと、裁判でのやりきれなさを思い出しました。
今年は、インド独立運動の指導者・ガンジーの没後70年。今も「マハトマ(偉大な魂)」「バプー(お父さん)」などと呼ばれ、国民から敬愛されている▼何かメッセージを――独立直後、新聞社の特派員がガンジーに問い掛けた。彼は多くを語らず、「私の生涯そのものがメッセージです」と応じた
インド創価学会の青年ら130人が、北海道15会場での交流交歓会に参加した。
その語る姿は“わが振る舞いを見よ”“わが姿を通して、仏法の崇高さ、師弟に生きる喜びを伝えたい”との確信にあふれていた
日蓮大聖人が晩年、「何よりも爽快」(御書1175ページ、通解)と喜ばれたのは、四条金吾や池上兄弟の「勝利の実証」であった。最高に爽快な勝利の広がりこそ、我らの広宣流布だ。
私も妻も、裁判のことは大きな心配事になっています。
しかし、先週の第一回裁判では、加害者親子に反省の意思はまったく感じられなかった。
私は、加害者親子が、亡くなった昴と私たち遺族への謝罪の気持ちを持てるようにと、日々祈っています。
朝の勤行をしながら、先日の人形劇のときに読んだある被害者の方のメッセージが浮かんできました。
「司法は被害者の味方ではなかった」
私たちも、そう感じる結果になるかもしれません。昴の裁判では、もちろん遺族の悲しみを伝え、加害者に対して命の尊さを語っていくつもりですが、しかし、裁判ではその機会が与えられないかもしれませんし、与えられたとしても語り尽せないかもしれません。
「私の生涯そのものがメッセージです」
そう言えるよう、ずっと題目を唱えながら、遺族の思いが加害者親子に伝わるよう祈っていく。そして、私たちの生涯で、私たちの振る舞いで、命の尊さを伝え抜いていくこと、私たちの振る舞いで、幸福の種を蒔き続けていくこと。それが私にとっての勝利の実証なのかな、と思いました。