学会の温かさ
今朝も1時間走りました。今日は妻も一緒でした。頑張るねー。
私は、昨夜ゆめの顔を見ないうちに寝てしまったことを後悔です。私が風呂まで済ませて居間でウトウトしていて、玄関からの「ただいま〜。」の声は聞いたんですが、ゆめはそのまま「素振ってくるー。」と言って家に入って来ませんでした。私はそのまま布団に入りその後の記憶がありません。そのことに対する後悔の気持ちを抱えながらの朝ジョギングになってしまいました。
今朝走っていると、西風が強くてとても寒く感じました。ですので、今日は、今秋初めてスーツの上着を着用しました。
今日の聖教新聞。〈信仰体験〉がよかったです。今日の〈信仰体験〉からは、私が育った創価学会の温かさを感じ、電車の中で読みながら、またブログに投稿しながら、泣けてきました。
以下、〈信仰体験〉の全文です。
〈信仰体験 スマイル 自分らしく〉 私の悩み・・・ 2年間の介護 母との別れ 2018年10月12日
一緒に祈った「宝の記憶」
結婚記念日を迎えた先月、9人そろって「はい、チーズ」。学会っ子として、みんな健やかに育ってほしいな。今年、長女のあいか、長男の剛斗は、教学部の任用試験に合格できた。同志の皆さまに感謝。夫と一緒に、笑顔の絶えない家庭をつくっていきたい
5人に1人が65歳以上という「超高齢社会」に突入している。介護は誰にでも起こり得る課題。担い手は、子や子の配偶者ら働き盛りの世代が多い。仕事、育児、介護……そんな多忙の中でも、心を失わないためには、周囲の支えが欠かせない。川崎市麻生区の前田仁美さん(38)=東百合ケ丘支部、白ゆり長=は、敏行さん(43)=壮年部員=と結婚し、7人の子を育てている。義母・尚江さん(76)=横浜市青葉区、区婦人部主事=の人柄に引かれ、2008年(平成20年)、創価学会に入会した。出産、育児の傍ら、難病の母・廣瀬和子さんを介護した日々――。学会の同志の励ましが、前田さんの信心と家族愛を深める力になった。
7人の子育て 毎日がパーティー
私は、高校2年生から3歳までの7人の子を育てている。毎日がパーティーみたい。夫と、子どもたちの笑顔を見てる時が幸せ。あったかい家庭をつくるのが夢だったから。
私は愛知で生まれた。知多半島の海岸近くで伯父と伯母が魚屋さんをやってて、お兄ちゃんとよく遊びに行ったなあ。ハゼを釣っていると、向こう岸のあめ工場から、甘い香りがして。海風が心地よかった。
私が7歳の時、両親は離婚した。お父さんは酒乱で手を上げる人だったから、お母さんは大変だった。
千葉に移って、お母さんとお兄ちゃんと小さなアパートで暮らした。小学校から帰ると、仕事に行ってるお母さんの代わりに夕食を作った。野菜嫌いのお母さんが、私の作る〈ニンジンの甘辛炒め〉だけは、おいしそうに食べた。「おまえは本当に料理がうまいな」って。口は悪いけど、愛のある人だった。
お義母さんのような女性に
離婚して大変な思いをしてるお母さんを見て、“私は、そうならないように”って思ってたけど、やっぱり宿命なのかな……。21歳で結婚したけど、夫は暴力を振るう人だった。結局、私も離婚した。
人生は思うようにいかない。家族なんてこんなもの……。何をしていても、誰と一緒にいても、心に孤独を感じてた。寂しかった。
そんな私に、希望をくれたのが、今の夫とお義母さんとの出会い。再婚で不安を抱える私を、笑顔で受け止めてくださった。
お義母さんは、いつも穏やかで、芯が強くて。どうしたら、こんな女性になれるんだろう……。聞けば、夫もお義母さんも、学会の信仰をしてるという。「私も入会します」って言ったら、お義母さんが「じゃあ、一緒に座談会に出よう」って、うれしそうだった。
初めて参加した座談会。再婚の私は、肩身が狭かった……。だけど、夫もお義母さんも「うちのお嫁さんです」って、堂々と紹介してくれて……。たくさんの拍手に包まれた時、胸がじーんとした。
婦人部の先輩方も、私を本当の娘のように、大切にしてくださる。
新居に住んで間もない頃、家のポストを開けると、〈何でも力になるからね。困ったら、いつでも相談するんだよ〉って手紙が入ってた。
子どもが熱を出した時、うちまで飛んで来てくださったり、乳腺炎になった時、母乳に良い食事を作ってくださったり……。お礼をしようとしたら、「いいの、いいの。困っている人がいたら、あなたも、同じようにしてあげてね」って。こんな、あったかい世界があったんだ。
最高の親孝行ができた日
2013年――私は、6人の子に囲まれ、母親としての大変さと喜びをかみ締めていた。一方で、女手一つで私を育ててくれた、お母さんの苦労を思うようになった。
その頃、お母さんは千葉で1人暮らしをしていた。私たちのそばで、孫の成長を見ながら、幸せな余生を送ってほしい――。お母さんは私の気持ちに応えて、近所に引っ越してきてくれた。
でも……。その直後、お母さんに病気が見つかった。筋萎縮性側索硬化症。手足や呼吸に必要な筋肉がやせて、力がなくなっていく難病。医師は「長くても余命は5年です。近いうちに体は動かなくなり、呼吸器を着けることになります」って。
病の進行は想像以上に早かった。口の筋肉が弱くなって、言葉が思うように話せない。お母さんは、悔しそうに何度も壁をたたいてた。
頭の中が、真っ白になった。“どうして、お母さんが……”。現実が受け止めきれなくて、泣きながら御本尊様の前に座った。題目を唱えても唱えても、涙があふれる。一心にお母さんの幸せを祈った。婦人部の先輩に励ましてもらって、少しずつ前を向けるようになった。“私がしてあげられる「最高の親孝行」って何だろう”。入会した時に教わった御書の一節を思い出した。
「此の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成る」(1580ページ)
そうだ。私と同じように、お母さんにも、この信心で幸せを感じてもらいたい――。願いが通じるよう、夫や子どもたち、多くの同志が祈ってくれて……。お母さんは14年1月5日、御本尊様をいただいた。その時のうれしそうな笑顔。私はずっと、忘れないだろう。
上がらない腕を伸ばして
「うちで、お母さんのことを看てあげたい」。私の願いを、夫がかなえてくれた。看護師さんを呼んだけど、お母さんは、「仁美じゃなきゃやだ」って。刻み食やとろみのある料理を作ったり、入浴や排泄の介助をしたり。胃ろうの管の洗浄、たんの吸引も、私がすると安心してた。
子どもたちが、「おばあちゃんのものまねをしまーす」って、たくさん笑わせてくれて……。
15年3月、7人目の子を産んだ。お母さんの名前から一字取って、「和城」と付けた。「いい名前だ」って、泣いてたお母さん。上がらない腕を精いっぱい伸ばして、和城を抱いてくれた。お母さんが、眠るように霊山へと旅立っていったのは、その3カ月後のことだった。
亡くなる直前、もうろうとする中でも、お母さんは私の手を取ってくれた。耳元で、「南無妙法蓮華経」とささやくと、涙をポロポロ流して「ありがとう」って。それが、最期の言葉だった。
お母さんが私に残してくれた手紙がある。震える字で〈私のめんどうを見てくれて、ありがとう。本当にたのしかったよ〉って……。
そばで過ごした2年間――。お母さんは、信心に巡り合って、安らぎを感じていたんだと思う。表情が穏やかになって、笑顔が増えた。
よく私の肩に手を置いて祈ってたね。家族を、未来を、私に託すように――。お母さんと一緒に祈った「宝の記憶」があるから、私は上を向いて歩いていけるんだ。