青いタイル

定期券を忘れてしまいました。と言いますか、いつも入れる通勤カバンに定期券がないことに、駅に着いてから気づきました。家に戻る時間はありませんので、切符を現金で購入するしかありませんでした。往復で2000円超。イタタタ。昨夜の酔いの悪影響がこんなところで出てしまいました。トホホ。

気を取り直し、今朝も聖教オンラインを読みました。今日は〈社説 きょうは難病の日〉が良かったです。

今朝は電車の中で、不思議と時間に余裕がありましたので、久しぶりに、聖教オンラインの“クリップ”を選択。私が過去の記事でよかった記事をクリップ留めしたものがズラーッっとスマホ画面に表示されました。

その中で、自分の記憶を頼りに、どの記事がよかったかなぁと思い出していると・・・

そうだ。あのおばあさんの記事をもう一度読もう。タイトルは・・・、そうそう、「青いタイル」で思い出しました。

2018年4月13日の〈信仰体験〉、長いですがその全文をご紹介します。私は何度読んでも泣けます。

〈信仰体験 ブラボーわが人生〉第44回 風呂場の青いタイル

「今一番、幸せでがんす」

 【宮城県石巻市】緩やかな暮らしの中で、井筒キミさん(92)=渡波栄光支部、圏婦人部主事=には楽しみが二つあるという。一つは食事。とにかくたくさん召し上がる。口に運ぶ所作もさすがで、丸いチョコレートでさえ梅干しをかじっているように見せる貫禄だ。もう一つはお風呂。ふやけすぎない程度に漬かる。「いやはや、風呂さ入んねえと、一日が終わらねえ」。食事とお風呂。ご満悦には深いわけがあるのです。

 ■題目一本

 頭の真っ白いばあさんだ。まんず、年とともにどうにもなんない。この顔だもの。足腰悪くなって、姿形も悪くなってしまった。いやいや、申し訳ねえ。

 食がいいのよ。総入れ歯だもの。何でも食べるよ。この年になっても食べ物がおいしいし、病気もない。信心のおかげだね。

 題目欠かさないよ。そいつ一本でやってきたの。朝4時前には目が覚めんのね。6時半まで題目あげてる。まずもって池田先生と奥さまのことを祈ってる。それが今の仕事だ。

 題目は、わが身のためだもの。読み書きできなかったけど、題目だけは負けないの。だからほれ、こんな幸せ者になったでば。

 ■家の明かり

 戦時中は東京・大田区の糀谷ってとこさいたの。ほいでなんだ、個人病院で働いてた。

 空襲になってB29が来るでしょ。防空頭巾とバケツさかぶって逃げたの。なんせ焼夷弾が花火のように落ちてくるから。夜明けてよ、「ここはどこだべ」って線路さ歩いたの。

 7年前の津波(東日本大震災)の後も、「ここはどこだべ」って言ったっけ。親を亡くして、子を亡くして。でもみんな頑張ってる。励ましてえけども、この年だもの。足腰悪くて、うまく歩けねえよ。

 代わりに、下の娘が歩いてくれんの。由美子(60歳、圏総合婦人部長)っていうの。池田先生の言葉さ、娘が届けてくれる。大悪おこれば、大善はきっと来っからなって。信心は絶対だぞって。まずまず、親としてこれほどの喜びはねえよな。

 健康でいることが、娘の応援だ。私が病気になったんでは、娘の足を引っ張ってしまうもの。ご飯炊いて、おかず作って、冬には部屋を暖めて、娘の帰りを待ってんの。「家に明かりがついてるだけでうれしい」って言ってくれる。この娘を持てて、最高でがす。

 ■心に師あり

 とにかくなんだ、池田先生とは毎日会ってる。ここ(胸)にいるからよ。池田先生は……なんて言えばいいんだか……素晴らしい。本当に。聖教新聞さ読んでは、何十年と切り抜いて、ノートに貼ってんの。

 池田先生と会ったことすか? 信心したばかりの頃、一度だけ会合でお会いしたの。後ろの方でな。だから、先生と握手したっていう人の話さ聞くと、うらやましい。でも、先生の手のぬくもりなら、なんぼか知ってんの。こんなことがあったのさ。

 ■風呂場の青いタイル

 震災で風呂場のタイルが壊れてな。直してくれた青年がいたの。洋平君っていうんだ。群馬から個人的に来たんだと。(避難所となった)石巻平和会館さ泊まってな。私のことを「石巻のおばあちゃん」って呼んでくれたでば。ほいで実家さ帰る日、「おばあちゃん、必ず家族連れて来るよ」って手振ったの。まずまず、ご苦労さんだ。

 3年前、家族で来てくれたのよ。でも洋平君はいねかった。健康害して亡くなったんだ。

 お茶っこ飲んで話したの。なかなかの母ちゃんだ。本当は息子亡くしたことを受け止めるのも大変だっちゃ。でも、私の前で笑顔を忘れなかったものな。並の人でねえ。

 帰りによ、みんなして玄関で写真撮ったの。洋平君の母ちゃんが少ししゃがんで、私の両肩に手を置いてくれたわけ。そして握手したの。あったかい手だ。その時、池田先生と握手したような気がしたのよ。なんて言うんだべねえ……母ちゃんの奥に、池田先生を見たっていうか。洋平君が言った通りだ。「うちのお母さんはすごいんだ」って。去年も夫婦で来てくれた。

 お風呂は楽しみだ。肩の力さ抜けて、心まであったまる。彼が直したままの風呂だもの。洋平君の母ちゃんは、息子が直した青いタイルを見ていったっちゃ。その横顔、忘れねえ。息子に再会したような優しい、優しい、目してた。

 この「縁」を結べたのも、池田先生が東北のことを祈ってくれてるおかげだよな。だから私は、震災に負けねえで生きてんだ。今一番、幸せでがんす。最高だ。

 娘もほれ、去年退職したからね。食べることもしてくれる。私よりおいしいもの作ってけんの。だから食事も楽しみだ。ちゃんとかんでますよ。総入れ歯だもの。いやいや、しゃべりすぎてしまったでば。恥ずかし、恥ずかし。

後記

 どんな状況でも、どっしりしてきた。 

 秋田生まれ。戦後の混乱期を耐え、1957年(昭和32年)、叔母の勧めで信心を始めた。お見合いも世話された。夫はお人よしだけど、酒が入るとたたく人。ある夜、キミさんはたたかれて死んだふりをした。慌てた夫は医者を呼んだ。薄目で様子をうかがうと、成り行きで注射された。頃合いを見計らって、一言。「ここは……」。ひと芝居の効果かどうかは不明だが、とにかく夫が信心を始めた。ドラム缶をたたいて座談会を邪魔していた旦那殿である。みんな驚いた。

 試練は信心10年目。夫が交通事故で亡くなった。小学4年と小学2年の娘がいた。キミさんは、ちくわ工場に勤めていた。正月もなかった。大みそかまで働いて、もらった給料で食いつなぐ。面倒見がいい夫は、人の借金まで背負い込んでいた。キミさんは金貸しからお金を借りて、実家にも頭を下げた。それでもどうにもならなくて、土地を半分削られた。「今に見てろ」。娘から聞いた母の口癖だ。

 試練で鍛えた志。不屈の信心。51歳で子宮がんになったものの、宿命の峠を力強く越えてみせた。

 震災7年余り。キミさんは見つめてきた。自然の猛威に翻弄されながらも立ち向かう、友の胸の内を。自分の言葉が届かない深いところでも、池田先生の言葉なら「やはり響いた」と。

 「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(御書1598ページ)。キミさんが最も大切にする人生訓だ。多くの人がキミさんを慕う。心の結び付きに幸せを思う。お風呂もその一つ。とある青年の生きた証しが、被災地の母に「幸あれ」と叫ぶ。(天)

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