きょうの発心満50年

今日からゆめの野球が始まりました。トイレに起きていた私に向かって、「初日やで送ったってくれる?」。妻の一言を待っていたかのように、ゆめを駅まで送りました。高校最後のシーズンの始まりです。最後までケガなく、頑張ってな。

聖教新聞は、年末に配達された元旦号に続き、今日から毎日の配達が始まり、今朝久しぶりに本年第二号となる1月4日号を読みました。聖教新聞がないと、ずいぶんと寂しい気がしました。

今日の記事で一番目が留まったのは、〈社説〉でした。

『「発心」とは、「発菩提心」を表す。仏の最高の覚りを得ようと求め、仏道修行を貫くことを誓う心を発すことをいう。』とのことです。

『一人から、また一人へ』『きょうも発心、あすも発心』

我が身で御書を拝し、確信を深めていきたいと思いました。

〈社説〉 「きょうの発心」連載50年 2019年1月4日

「御書」を拝して確信の励ましを

 本紙連載のコラム「きょうの発心」が、本日付をもって満50年を迎えた。1969年(昭和44年)1月4日付から始まった連載回数は1万4千回を超え、半世紀もの長きにわたり、皆さまにご愛読いただいてきたことに、心から感謝申し上げたい。
 ある読者は、「きょうの発心」を“聖教新聞のサザエさん”と親しみを込めて呼ばれていた。また、求道の一助として、切り抜いたり、ノートに書き写したりする方も少なくない。なかには、拡大印刷した巨大な「きょうの発心」を作り、顔写真の部分に開けた穴から顔を出して御文の発表をするなど、座談会でほほ笑ましい試みをしている例も。
 近年の「きょうの発心」は、広布のリーダー自身の体験を中心につづられている。限られた紙幅には、病魔や経済苦との戦い、人間関係の苦悩、青春時代の葛藤などを、信心根本に乗り越えたドラマが凝縮されている。そして師匠・池田先生との原点を胸に、地域や社会で雄飛を誓う熱情にあふれている。
 「発心」とは、「発菩提心」を表す。仏の最高の覚りを得ようと求め、仏道修行を貫くことを誓う心を発すことをいう。
 しかし、仏道修行を貫くことは難しい。日蓮大聖人は「法華経は、紙に書いてある通りに声をあげて読んだとしても、その経文に説かれる通りに振る舞うことは難しいであろう」(御書1001ページ、通解)と仰せである。第1回の「きょうの発心」で紹介された御文でもある。
 そうした中にあって、多くの方の原稿を拝見して感じることは、“御書を身で拝した人は強い”ということだ。「きょうの発心」に登場する方のほとんどが、御書を拝して確信の励ましを送ってくれた同志、家族、池田先生に対する感謝の心を記している。その苦闘の軌跡、人生勝利の歩みを読んだ方からも感動の言葉が寄せられている。
 一人から、また一人へ――この「発心」の連鎖こそ、学会に「実践の教学」が脈打つ証左にほかならない。
 新年を迎え、あらためて自らの身に照らして御書を繙き、「発心」の契機にしていきたい。
 池田先生はつづっている。「『御書』を開くことは『境涯』を開くことだ。御書を拝して、広大無辺なる御本仏のお心に迫り、自らの小さな殻を打ち破る戦いをするのだ」
 「きょうも発心」「あすも発心」――この気概で、読者と共にたゆみなく広布にまい進するためにも、一層の紙面充実に励んでいきたい。

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