人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし
今日のSEIKYO ONLINE 〈信仰体験 ブラボーわが人生〉 第44回 風呂場の青いタイルの後半部分です。
昴のことを思い出し、涙が溢れました。
■心に師あり
とにかくなんだ、池田先生とは毎日会ってる。ここ(胸)にいるからよ。池田先生は……なんて言えばいいんだか……素晴らしい。本当に。聖教新聞さ読んでは、何十年と切り抜いて、ノートに貼ってんの。
池田先生と会ったことすか? 信心したばかりの頃、一度だけ会合でお会いしたの。後ろの方でな。だから、先生と握手したっていう人の話さ聞くと、うらやましい。でも、先生の手のぬくもりなら、なんぼか知ってんの。こんなことがあったのさ。
■風呂場の青いタイル
震災で風呂場のタイルが壊れてな。直してくれた青年がいたの。洋平君っていうんだ。群馬から個人的に来たんだと。(避難所となった)石巻平和会館さ泊まってな。私のことを「石巻のおばあちゃん」って呼んでくれたでば。ほいで実家さ帰る日、「おばあちゃん、必ず家族連れて来るよ」って手振ったの。まずまず、ご苦労さんだ。
3年前、家族で来てくれたのよ。でも洋平君はいねかった。健康害して亡くなったんだ。
お茶っこ飲んで話したの。なかなかの母ちゃんだ。本当は息子亡くしたことを受け止めるのも大変だっちゃ。でも、私の前で笑顔を忘れなかったものな。並の人でねえ。
帰りによ、みんなして玄関で写真撮ったの。洋平君の母ちゃんが少ししゃがんで、私の両肩に手を置いてくれたわけ。そして握手したの。あったかい手だ。その時、池田先生と握手したような気がしたのよ。なんて言うんだべねえ……母ちゃんの奥に、池田先生を見たっていうか。洋平君が言った通りだ。「うちのお母さんはすごいんだ」って。去年も夫婦で来てくれた。
お風呂は楽しみだ。肩の力さ抜けて、心まであったまる。彼が直したままの風呂だもの。洋平君の母ちゃんは、息子が直した青いタイルを見ていったっちゃ。その横顔、忘れねえ。息子に再会したような優しい、優しい、目してた。
この「縁」を結べたのも、池田先生が東北のことを祈ってくれてるおかげだよな。だから私は、震災に負けねえで生きてんだ。今一番、幸せでがんす。最高だ。
娘もほれ、去年退職したからね。食べることもしてくれる。私よりおいしいもの作ってけんの。だから食事も楽しみだ。ちゃんとかんでますよ。総入れ歯だもの。いやいや、しゃべりすぎてしまったでば。恥ずかし、恥ずかし。
後記
どんな状況でも、どっしりしてきた。
秋田生まれ。戦後の混乱期を耐え、1957年(昭和32年)、叔母の勧めで信心を始めた。お見合いも世話された。夫はお人よしだけど、酒が入るとたたく人。ある夜、キミさんはたたかれて死んだふりをした。慌てた夫は医者を呼んだ。薄目で様子をうかがうと、成り行きで注射された。頃合いを見計らって、一言。「ここは……」。ひと芝居の効果かどうかは不明だが、とにかく夫が信心を始めた。ドラム缶をたたいて座談会を邪魔していた旦那殿である。みんな驚いた。
試練は信心10年目。夫が交通事故で亡くなった。小学4年と小学2年の娘がいた。キミさんは、ちくわ工場に勤めていた。正月もなかった。大みそかまで働いて、もらった給料で食いつなぐ。面倒見がいい夫は、人の借金まで背負い込んでいた。キミさんは金貸しからお金を借りて、実家にも頭を下げた。それでもどうにもならなくて、土地を半分削られた。「今に見てろ」。娘から聞いた母の口癖だ。
試練で鍛えた志。不屈の信心。51歳で子宮がんになったものの、宿命の峠を力強く越えてみせた。
震災7年余り。キミさんは見つめてきた。自然の猛威に翻弄されながらも立ち向かう、友の胸の内を。自分の言葉が届かない深いところでも、池田先生の言葉なら「やはり響いた」と。
「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(御書1598ページ)。キミさんが最も大切にする人生訓だ。多くの人がキミさんを慕う。心の結び付きに幸せを思う。お風呂もその一つ。とある青年の生きた証しが、被災地の母に「幸あれ」と叫ぶ。
昴から教えてもらった我が使命です。人のために尽くさなければ!
妻と一緒に祈っています。
きぬよさん、がんばろう!