4月13日のブラボーわが人生
帰りの電車で、カバンに入っていた名字の言選集2を読んでいたところ、無性に、以前聖教オンラインで読んだ東日本大震災に関する記事を読みたくなりました。マイクリップで探したところ、その記事は今年の4月13日の信仰体験でした。
再度読んでもやはり感動しました。すごくいいので、長い記事ですが、今回はその全文を載せます。ぜひ最後まで読んでいただきたいです。
〈信仰体験 ブラボーわが人生〉
風呂場の青いタイル
「今一番幸せでがんす」
【宮城県石巻市】緩やかな暮らしの中で、井筒キミさん(92)=渡波栄光支部、圏婦人部主事=には楽しみが二つあるという。一つは食事。とにかくたくさん召し上がる。口に運ぶ所作もさすがで、丸いチョコレートでさえ梅干しをかじっているように見せる貫禄だ。もう一つはお風呂。ふやけすぎない程度に漬かる。「いやはや、風呂さ入んねえと、一日が終わらねえ」。食事とお風呂。ご満悦には深いわけがあるのです。
■題目一本
頭の真っ白いばあさんだ。まんず、年とともにどうにもなんない。この顔だもの。足腰悪くなって、姿形も悪くなってしまった。いやいや、申し訳ねえ。
食がいいのよ。総入れ歯だもの。何でも食べるよ。この年になっても食べ物がおいしいし、病気もない。信心のおかげだね。
題目欠かさないよ。そいつ一本でやってきたの。朝4時前には目が覚めんのね。6時半まで題目あげてる。まずもって池田先生と奥さまのことを祈ってる。それが今の仕事だ。
題目は、わが身のためだもの。読み書きできなかったけど、題目だけは負けないの。だからほれ、こんな幸せ者になったでば。
■家の明かり
戦時中は東京・大田区の糀谷ってとこさいたの。ほいでなんだ、個人病院で働いてた。
空襲になってB29が来るでしょ。防空頭巾とバケツさかぶって逃げたの。なんせ焼夷弾が花火のように落ちてくるから。夜明けてよ、「ここはどこだべ」って線路さ歩いたの。
7年前の津波(東日本大震災)の後も、「ここはどこだべ」って言ったっけ。親を亡くして、子を亡くして。でもみんな頑張ってる。励ましてえけども、この年だもの。足腰悪くて、うまく歩けねえよ。
代わりに、下の娘が歩いてくれんの。由美子(60歳、圏総合婦人部長)っていうの。池田先生の言葉さ、娘が届けてくれる。大悪おこれば、大善はきっと来っからなって。信心は絶対だぞって。まずまず、親としてこれほどの喜びはねえよな。
健康でいることが、娘の応援だ。私が病気になったんでは、娘の足を引っ張ってしまうもの。ご飯炊いて、おかず作って、冬には部屋を暖めて、娘の帰りを待ってんの。「家に明かりがついてるだけでうれしい」って言ってくれる。この娘を持てて、最高でがす。
■心に師あり
とにかくなんだ、池田先生とは毎日会ってる。ここ(胸)にいるからよ。池田先生は……なんて言えばいいんだか……素晴らしい。本当に。聖教新聞さ読んでは、何十年と切り抜いて、ノートに貼ってんの。
池田先生と会ったことすか? 信心したばかりの頃、一度だけ会合でお会いしたの。後ろの方でな。だから、先生と握手したっていう人の話さ聞くと、うらやましい。でも、先生の手のぬくもりなら、なんぼか知ってんの。こんなことがあったのさ。
■風呂場の青いタイル
震災で風呂場のタイルが壊れてな。直してくれた青年がいたの。洋平君っていうんだ。群馬から個人的に来たんだと。(避難所となった)石巻平和会館さ泊まってな。私のことを「石巻のおばあちゃん」って呼んでくれたでば。ほいで実家さ帰る日、「おばあちゃん、必ず家族連れて来るよ」って手振ったの。まずまず、ご苦労さんだ。
3年前、家族で来てくれたのよ。でも洋平君はいねかった。健康害して亡くなったんだ。
お茶っこ飲んで話したの。なかなかの母ちゃんだ。本当は息子亡くしたことを受け止めるのも大変だっちゃ。でも、私の前で笑顔を忘れなかったものな。並の人でねえ。
帰りによ、みんなして玄関で写真撮ったの。洋平君の母ちゃんが少ししゃがんで、私の両肩に手を置いてくれたわけ。そして握手したの。あったかい手だ。その時、池田先生と握手したような気がしたのよ。なんて言うんだべねえ……母ちゃんの奥に、池田先生を見たっていうか。洋平君が言った通りだ。「うちのお母さんはすごいんだ」って。去年も夫婦で来てくれた。
お風呂は楽しみだ。肩の力さ抜けて、心まであったまる。彼が直したままの風呂だもの。洋平君の母ちゃんは、息子が直した青いタイルを見ていったっちゃ。その横顔、忘れねえ。息子に再会したような優しい、優しい、目してた。
この「縁」を結べたのも、池田先生が東北のことを祈ってくれてるおかげだよな。だから私は、震災に負けねえで生きてんだ。今一番、幸せでがんす。最高だ。
娘もほれ、去年退職したからね。食べることもしてくれる。私よりおいしいもの作ってけんの。だから食事も楽しみだ。ちゃんとかんでますよ。総入れ歯だもの。いやいや、しゃべりすぎてしまったでば。恥ずかし、恥ずかし。
後記
どんな状況でも、どっしりしてきた。
秋田生まれ。戦後の混乱期を耐え、1957年(昭和32年)、叔母の勧めで信心を始めた。お見合いも世話された。夫はお人よしだけど、酒が入るとたたく人。ある夜、キミさんはたたかれて死んだふりをした。慌てた夫は医者を呼んだ。薄目で様子をうかがうと、成り行きで注射された。頃合いを見計らって、一言。「ここは……」。ひと芝居の効果かどうかは不明だが、とにかく夫が信心を始めた。ドラム缶をたたいて座談会を邪魔していた旦那殿である。みんな驚いた。
試練は信心10年目。夫が交通事故で亡くなった。小学4年と小学2年の娘がいた。キミさんは、ちくわ工場に勤めていた。正月もなかった。大みそかまで働いて、もらった給料で食いつなぐ。面倒見がいい夫は、人の借金まで背負い込んでいた。キミさんは金貸しからお金を借りて、実家にも頭を下げた。それでもどうにもならなくて、土地を半分削られた。「今に見てろ」。娘から聞いた母の口癖だ。
試練で鍛えた志。不屈の信心。51歳で子宮がんになったものの、宿命の峠を力強く越えてみせた。
震災7年余り。キミさんは見つめてきた。自然の猛威に翻弄されながらも立ち向かう、友の胸の内を。自分の言葉が届かない深いところでも、池田先生の言葉なら「やはり響いた」と。
「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(御書1598ページ)。キミさんが最も大切にする人生訓だ。多くの人がキミさんを慕う。心の結び付きに幸せを思う。お風呂もその一つ。とある青年の生きた証しが、被災地の母に「幸あれ」と叫ぶ。(天)
ようやく、少し元気を取り戻した気がします。