自分と異なる感覚を温かく受け止めている自分はいるか
昨夜は火曜唱題をしました。メンバーが全員揃って嬉しかったです。私は孫のたーくんを抱っこしての唱題でした。まだ生後2ヶ月ですが、だいぶ肉付きがよくなってきました。あんなに耳の近くで大音量の題目を聞かされているのに、途中でスヤスヤと眠ってしまいました。気持ちいいのかな。
私は今通勤時間を利用し、少しずつですが、大白蓮華の5月号を読み進めています。(5月も後半に入ってしまいましたので、難しい御書などは後回しにしがちですが・・)
昨日は、5月号の後半部分に連載中の〈いのちの光 大人の発達障害②〉を読みました。
大人の発達障害にも様々なケースや症状があるそうですが、外見上は障害があることがまったくわからないケースも多いそうです。
最近発達障害との診断を受けたという地区婦人部長さん。小学生の頃からいじめにあったという22歳の女性。
お二人とも外見は普通。でもコミュニケーション時の感覚などが周りとは少し違う。
記事には、お二人が発達障害を抱えながらも、社会で頑張っておられる姿が紹介されていました。
記事の「取材後記」の最後の投げ掛けが心に刺さります。
発達障害の方に限らず、こうした感覚の違いは、無数に存在する。「ダイバーシティ(多様性)」の言葉が、頻繁に用いられるようになった社会の中で、自らと異なる感覚を、温かく受け止めている自分は、そこにいるだろうか。自らの胸に、そっと手を当ててみたい。